| 福嚴寺沿革 |
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| 宗旨 |
「曹洞宗」山号「天王山」寺号「福嚴寺」 |
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| 本尊 |
「西方阿弥陀如来」 |
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| 本山 |
両大本山といって、大本山が二つあります。一つは越前の永平寺、他の一つは鶴見の総持寺であります。両大本山は曹洞宗寺院の根本であり、信仰の源泉であります。 |
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| 本寺 |
袋井市岡崎龍巣院(森町、大洞院末寺) |
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| 御開山 |
北簡元壽大和尚 明暦二年、十二月二十二日没、世壽 九十五才、甲陽の人、武田信玄入道の旗下で侍大将を勤め、天正の頃、高天神城の際落ちのびて池新田に住い、その折袋井の龍巣院の末寺で池新田の東泉寺の御開山春芸和尚(龍巣院十世)につき得度して僧侶となり、寛永五年(一六二八年)六十五才にて龍巣院十二世の住職となり三十年間の 在住中に當寺及び西鴨江の花岳院の勧請開山と成る。又、寛永十六年(一六三九年)大本山総持寺の貫長として普山し輪番住職と成る。
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| 二世 |
浜松の在、島之郷の生まれ、自分の師僧である元壽和尚を拝請し、御開山に成って頂き、自分は福厳寺の二世と成る。又当時、本寺の龍巣院の住職は常に他国に赴き不在のために、龍巣院の役寮(直歳)として、元壽和尚を補佐し住職の代わりになって務め、寛永八年(一六三一年)龍巣院が法堂を含め全山焼失の災厄に遭遇した際、齢外和尚の手腕により、直ちに旧観に復旧した功労に依って、本寺、龍巣院の十三世の住職と成る。 |
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| 開基 不詳 |
御開山入寂、明暦二年(一六五六年)ではあるが、寺の過去帳には、慶長六年(一六〇一年)十月十三日没、伊奈備前守源忠次公、黒印寄附と記されており、又、檀中には「小粥」の姓が多く小粥の姓の由来は、元亀三年(一五七二年)三方原合戦の際、徳川家康が島四郷(金屋、三浦、阿称田、本郷)郷社の現八坂神社の前の農家に逃げ込み、粟の「おかゆ」を食べ、空腹を凌ぎ、後に家康より賞として小粥の姓と家康(丸に二引き)を頂いた事等より、寺の建立は不明であるが、徳川家康が浜松城に在城より前と思われる。又、小粥の姓の発祥の末孫も、太平洋戦争まではお墨付きを持っていたが、戦争で焼失してしまったとの事、貴重な資料を失った事が残念です。又、当初は天台宗の寺であったが、慶長六年に曹洞宗に改宗し、除地の高、一石五斗を貰っていた。前の八坂神社とは、神仏混交の明冶までは、一屋敷であり、現在遠江四十九薬師第二十番札所の薬師堂(嘉永元年(一八四八年)再建)は島四郷の大氏神、祇園午頭天王の奥の院であった事が、薬師堂再建の勧進簿より判明しており、以前は寺の正面に南向きに建っておった。 |
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| 建物 |
本堂、寛政四年(一七九二年)當山七世、戒運和尚の時、本堂を含め全山焼失し、翌年、再建する。明冶二十九年十月、當山十八世大満實道大和尚の時、萱葺きの屋根より瓦葺きの屋根へと修繕を行った。昭和十九年東南海地震にて本堂は大部被害をうけ、昭和四十二年、當山廿一世仙岳敬年大和尚が修理と回廊等を増築し現在に至る。又、本堂前の「祇園林」の額は山岡鉄舟の書であり、明治の時の神仏分離令の折、京都の祇園神社の流れをくむ八坂神社と分離されるのに際し額として残した物。開山堂、庫裡は當山十九世重興麒山大麟大和尚が大正六年三月に再建し現在に至る。 |